毎年夏、欧米旅行でご一緒している「ツアーフレンド」のメンバーである高橋さんから電話があったのは、5月上旬の事。ご自身もボランティアとして関わっている知的障がい者の人達の海外旅行の相談にのって欲しいというのが電話の趣旨。さっそく幹事さんとして紹介された上島さんのもとへ資料を送ったら、翌日にはもう電話がありました。 聞けば、自分が世話役をしているグループホームのメンバー4人と世話役ボランティアの3人、計7名で6月に台湾旅行に行きたいので、その手配をして欲しいとの事。何でも、6年前オーストラリアに行って以来で、みんな今回の旅行に備えて貯金してきたのだそうです。 私も台湾にはずい分行ってますし、50人、100人という人数の海外添乗もしてきていますので、そのあたりは心配していませんでしたが、知的障がい者の方をお世話する旅というのは初めて。さっそく、上島さん、高橋さん、そしてもう一人のボランティアである金釜さんの3人とお会いし、コースや条件について打ち合わせ。そして、6月下旬、2泊3日、台北中心に周るという事を決めました。私も添乗でお供することにしました。 ちなみに、同行する3人のうち、幹事役の上島さんはグループホームの世話役で、保育士や福祉関係の仕事をして40年のキャリアの持ち主、高橋さんは30年以上英語の教師として教壇に立ったあともボランティア活動に関わってきた人。また、金釜さんも保育士として重度の障がい者のお世話をしてきた人で、上島さんと同じ職場で働いたこともあるそうです。べテラン揃い、それも3人もいらっしゃるので、まずは一安心と思いつつ、手配を進めました。
「日程もコースも決まったから、一度お手数でもグループホームに来てメンバーの4人に説明していただけませんか」と、テンポの速い上島さんから電話。もちろん事前の説明会は、こちらにとっても望むところ。ただ、グループホームという名称は聞いていても、その内容は殆ど知らず。何でも知的障がい者の人達が自立を目指して、生活しているところの事だそうです。ここでは、民間の鉄筋アパート2部屋を借りて、4人の30代の女性が生活しています。4人共、仕事をしているというので、上島さんの案内で伺ったのは夕方6時半頃。もう 4人は待っていてくれました。どう切り出そうかな、とちょっと戸惑いながらも「こんばんは」と挨拶。すかさず、「こんばんは」と返ってきたのでホッとしていたら、上島さんが声の小さかったメンバーの一人に「いらっしゃいませ、でしょ」とストレートな指摘。 今度は皆でハモって「いらっしゃいませ」、そして「今日は、カレーライスを作ったので食べて下さい」と。何、カレーだって? 今の仕事をしていなかったら、コックか考古学者になりたかった私は、今もカレールーは小麦粉を焼いて作るし、玉ねぎを飴色になるまで炒める程なので、一家言あり。もちろん、ここはそんな個人的かつマニアックな趣味は封じ込めて「いただきます」。 毎日、交替で朝・夕食を作っているのだそうで、今日はカレーにサラダと冷奴それにみそ汁付。じゃがいもや野菜がたくさん入っていて、具だくさんのせいもあってか、ルーの辛さもマイルド。 満腹になったところで、旅行の中味について説明。と思っていたら、知人から譲ってもらったという台湾のガイドブックが用意してあり、そのところどころに付箋が付いています。免税店や変身写真館のページです。そこに目をとめていたら、「台湾でこんな写真をどうしても撮りたいんです」。ここで、上島さんからフォローあり。「カズちゃんは、これが楽しみで長い間貯金してきたんだもんね」。4人にお母さんと呼ばれている上島さんは、一人ひとりの気持ちもしっかり掴んでいるようです。 「大丈夫ですよ。ホテルは中山北路という台北市の中心部にとってあるし、すぐ近くにも写真館はあるから」と言いながら、最も肝心なパスポートの管理や交通ルールが日本と反対なこと、現地のお金は元で、1元は約3.5円であること、などを繰り返し説明。 説明会終了後、駅まで車で送って下さった上島さんに車中で「知的障がい者というから、初めはどう接したらいいのかと思ったけど、皆さん会ってみたら普通な感じですね」と言うと、「皆な比較的軽度ですし、何より自立を目指して生活してますからね」との答えが返ってきました。 故郷・新潟に年老いた母を一人残しながら、寅さんのような生活をしている自分が、ボランティアの人達と一緒に障がい者を案内するなんて、と内心及び腰だったのですが、ちょっと吹っ切れました。
出発当日、集合は午前8時に決めておきましたが、私が着いた時には、もう全員が集まっていました。 「おはようございます。覚えていますか。この前、カレーライスをご馳走になった坂内です。いよいよ出発ですね。今から出発の手続きを説明しますから、よく聞いて下さいね」と先ずは型通りの挨拶。 少し、やりとりに慣れてきたところで、「パスポート、現金など特に大事なものは注意して、くれぐれも盗難にあわないようにしましょうね。東南アジアに行って盗難にあったら シャレになりませんよ」などと少しずつ、ギャグのカテゴリーを上げていきます。 「皆さん、僕のような仕事をする人を何というか知っていますか」―――― 「添乗員さん」「ガイドさんかな」。「そうですね。どっちでもいいですけど、ガイドさんは台北で待っている人ですね。僕は“てんじょういん”でもいいけど、“てんじょうびと”でもいいですよ。 「?*△□×!!」 ちょっと飛ばし過ぎたかなと思いつつ、軌道修正。お互いまだよく知らない同士では、ジョークなども挟みつつ、相手との距離を測り、かつそれを縮めるように進めていきます。 さあ、いよいよ出国手続きです。まず、日本航空のカウンターでチェックイン。日本アジア航空は日本航空の関連会社なので、ここで手続きをします。以前と異なり、今は一人ずつパスポートと航空券を手に持ってのチェックイン。とはいっても予約上は8人が1ブロックに入っているので、そう心配はいりません。 普段、時間に余裕がある時は、ひとまず解散して、出発30分前までにゲートに集合と、案内するのですが、今回はそのまま、まとまって出国審査に進みます。無事通過したところで、誰ともなく「緊張しちゃった」と言いながらニッコリ。 以前はA、B、C、Dとゾーン別に分けられていた第2ターミナル搭乗ゲートですが、6月からは番号だけになり、ちなみに今日のゲートは81番。
今回乗ったのは、今年で創立30周年を迎えた日本アジア航空です。 かつて、日中国交回復をした時、それまでアメリカ一辺倒で、「台湾が中国を代表する正当な政府」などというレトリックを受け入れていたのが時の日本政府でした。それが、対ソ戦略もあって中国承認に秘密裏に動いたアメリカのキッシンジャー穏密外交によって、日本は2階から梯子をはずされた形となり、いわばあわてて中国との国交回復を図らねばならない事態に追い込まれてしまいました。その過程で、国交を回復する以上は台湾と断交し、日本を代表する翼である日本航空が中国大陸に飛ぶというなら台湾には飛ばすべきではない、との中国側の意向を無視することは出来ませんでした。弱った日本側は、台湾の翼・中華航空は羽田に追いやると共に苦肉の策として作ったのが、日本アジア航空なのです。片や、アメリカのノースウエスト航空は中国にも台湾にも飛んでいるというのに。 そんな日本アジア航空も、今ではすっかりアジアの顔となりました。私も、もう40〜50回は乗ったでしょう。出発午前10時、帰国便・現地発午後3時というのも、3日間有効に使うには便利です。 いよいよ搭乗です。通路の窓越しに大きなジャンボ機(ボーイング747)のちょっと出張ったコックピット(操縦席)が目に入ってきます。「コブみたいね」という声に、すかさず飛行機オタクの私が答えます。「あのコブみたいのが、ジャンボ機の特徴です。このデザインそのものは、もう40年も前の設計。当時500人乗りは画期的だったけど、まもなく1000人乗りも出来るだろうから、その時は貨物機に転用しようと考えて、先頭部のところを開けて荷物を出し入れ出来るよう、操縦席を上にして作ったんですよ」 「そうしたら、40年前の飛行機なの」「違う違う、プランを考えた時の話しで、この飛行機はそんなに古い訳じゃないの」と補足説明。とは言いつつも、燃料効率が約3%良くなるとして、その後、各機種に競って採用された主翼の先端がピンとハネ上がった「ウイング・レット」型でもないし、各客席にパーソナルTVがついているオンデマンド型でもないし、確かにボーイング747−200型じゃあ、そう新しい機材とは言えないなと思いながら、ここは言葉を飲み込みます。ジャンボ機も進化し10種類以上あるのですが、今はボーイング767、777やエアバス330、340といった中型機が主流で、ジャンボ機の時代ではないのです。 メンバーのうち、通路側D席の私の隣り、E席に座ったトモちゃんはまだ少し緊張していました。久し振りの飛行機なのでしょうか。それとも、6年振りの海外旅行ゆえでしょうか。「寒くない?毛布はあるよ」―「大丈夫」と言葉も少なめ。 水平飛行に移り、キャビンアテンダント(CA)が忙しく動き始めました。なかに、ひときわ表情豊かに声をかけてくれるCAがいます。「スチュワーデスさんが、何か飲み物はいかがですかって?」。トモちゃんはジュースを選びました。 飲み物サービスに続いて食事です。今日はカツカレーか牛丼の選択。最近はこういった庶民的な丼物の方が受けるようです。これにジャージャー麺や生ハムサラダ、それにデザートのきなこプリンなどもつきます。 また、先ほどのCAが声をかけてくれます。「飲み物のおかわりしますか?」明るい笑顔にトモちゃんの表情も緩みます。「遠慮しなくていいって。僕もコーヒーおかわりするよ」と言ったら「じゃあ私はジュース」。 CAに統一したとはいえ、一般にはまだスチュワーデスの方が通り易い感じです。「明るくて感じのいい方ですね」と言いつつ、ファーストネームを聞いてしまいました。「太平洋の洋子、小林洋子です。どこにでもある平凡な名前です。添乗ご苦労さまです。皆さん、とてもマナーの良い方ばかりですね」とまたニッコリ。普通、ハンディキャップの有無などは、念のため、事前に航空会社にも伝えてあります。でも、今回は不要だったようです。さりげない気配りに「次もやっぱりEG(日本アジア航空)だなぁ」と、まるっきりオジサンの乗り。 台北・中正空港には、ほぼ定刻到着。入国審査は出国でもう慣れたせいか、すこぶるスムース。出迎えのガイドさんがびっくりするくらい早く合流。さあこれから台湾観光です。 台湾のガイドさん 私にとっては、つい半月前にも来たところですが、もとより、そうした顔は見せません。 先ずは時計を1時間戻すこと、交通ルールが反対だから特に車の乗り降りの際には注意すること、お金は元だけど同じ“エン”と発音するから間違わないようにすること、生水は飲まないこと、といった「基本パターン」を繰り返した後ガイドさんにバトンタッチ。 現地旅行社には、ガイドさんは性別は問わないけれど、ゆっくり丁寧なガイドさんをと頼んでおきました。はたして、初老の男性ガイドで程さんという人。ちなみに、日本では鉄道用語から引っぱってきた添乗員という言葉が生きていますが、台湾・中国では導遊(タオユー)といいます。なるほど、漢字の国は意味深長。 台湾の年配のガイドさんは、何故か元教師という人が多いのですが、程さんもその例にもれず。以前、他の旅行社でガイドをしていたのですが、その会社は39,800円(サンキュッパ)といった激安価格競争に巻き込まれて倒産したのだそうで、「初めから、しゃにむにオプションを売らないと赤字になるようなツアーは異常。今はこうして仕事が出来るのが有り難いことで、健康で身体が続くなら、もう少しやりたいですね」と静かに語ります。 事前に頼んでおいたせいか、もともと、かんで含めるような語り口なのか、丁寧にゆっくりと説明していきます。
ところで、台湾、台湾と言いますが、台湾という国はありません。孫文の建てた中華民国を引き継いだ義弟の蒋介石が、第2次大戦後、毛沢東との国共内戦に敗れ、台湾に逃れた後も中華民国を唱え続け、いつかは大陸に反攻するのだから台北はそれまでの臨時首都というのが理屈。何だか、日本の建武の中興に続く南北朝時代の南朝みたいな存在。さすれば、蒋介石はさながら足利尊氏に追われた後醍醐天皇に比すべきか、いやいや--------。 もちろん、世界の大勢は中国といえば、大陸つまり中華人民共和国を指し、今となっては台湾も「唯一の正統政府」などと言わず、いわば現状を踏まえて、事実上「台湾政府」を為しているのですが、中国政府からしたら、これとても許せない話。かくして、国名のない台湾、正式な首都でない台北が、それぞれ実態として国名、首都となっている次第。 時は流れ、長く政権を維持してきた反共の国民党に対抗して、初めて政権に就いた民進党の陳水扁総統ですが、中国は台湾独立を唱えるこの政権を嫌って、不倶戴天の敵であるはずの国民党に秋波を送っているのが、いかにも三国志のこの国らしいところです。 もちろん、こんなややこしい話はご法度、あくまで実態に沿ってルールや仕組みを説明していきます。
台北の観光コースの定番といえば、旧日本の台湾総督府の建物を、そのまま今日まで使っている総統府、蒋介石を祀った中正紀念堂、日中戦争などで亡くなった将兵を祀った忠烈祠、台湾最古のお寺・龍山寺、世界10大ホテルの1つに数えられる円山大飯店など。 それに最近は、世界最高508m、101階建を誇る101ビルもあります。 皆の目が点になったのは、中正紀念堂と忠烈祠の儀杖兵の交替式。1時間ピクリとも動かなかった衛兵が交替式でロボットのように動きます。軍靴や銃床で床をたたく音も響きます。「びっくりした」とショーコちゃんは目をパチクリ。 日本人の多くには、蒋介石が本名と思われていますが、実は蒋中正が本名。中正空港、 中正紀念堂も蒋介石空港、蒋介石紀念堂と訳せば、もっと解かり易いかもしれません。ちなみに、北京語(中国語)の記念は紀念が正当。 台北近郊の観光ポイントといえば、タイヤル族の里で白糸の滝もあるウーライ、波が作った奇岩が見事な野柳岬、日本人には港町として有名な北の玄関口・基隆、そして1989年ベネチア映画祭のグランプリを受賞した映画「非情城市」の舞台となったレトロな街・九?など。 今回は改装工事中ということもあって行きませんでしたが、誰もが知っている中国5000年の歴史の宝物を誇る故宮博物院もあります。付き添いのボランティア、高橋さんや金釜さんも子供の頃のように楽しんでまわったのは、九?(チウフェン)の街並み。かつて、金鉱で栄えたという街の狭い歩道の両側に、食べ物屋や民芸品店がぎっしりと並んでいます。「懐かしいね。昔は日本でもこんな飴売ってたわよね」とは金釜さん。そして、30分程両側の店を見て、抜け出たところに小さな見晴台のようなスペースがあります。さっき、まわってきた野柳岬や基隆などの北海岸が鮮やかに浮かんで見えます。思わず「わーきれい」と一斉にカメラのシャッターを切ります。
私たちは普段、何気なく中華料理とひとくくりにしていますが、その地域的特徴などにより、大きく北京、広東、上海、四川の4種類に分類されます。蒋介石は国共内戦に敗れて台湾に渡ってきた時に、兵隊と共に故宮博物院の宝物や料理人達も伴ってきたといいます。その為、台湾に来れば、中国各地の本場の料理が味わえると言われています。 今回のツアーでは、前記の4種類とは少し趣を異にする郷土料理・台湾料理や広東料理の軽食版ともいうべき飲茶(ヤムチャ)、それに四川料理などを楽しんでもらいました。 台湾料理の丸林レストランでは、その品数に皆びっくり。カラスミの前菜、青菜炒めといった定番以外にも炒飯や海老のチリソースといった日本人に馴染みのメニューもならびます。デザートも含め10品近く、それも山盛り。 「こんなに出して大丈夫なの」と上島さんは幹事らしく少し心配顔。すかさず「大丈夫ですよ。全てツアー費に入ってますから」と応じます。ちょっと箸が長いのと、醤油さしだか薬味入れだか解からないような小皿が多くて、少し戸惑いはありましたが、まわりを見たり、見よう見真似で更に箸を進めます。 「せっかく6年振りに海外に来たんだから、日頃の事は忘れて、うんと楽しまなくっちゃね」とユキちゃんは、はっきりした持論を述べます。 鼎泰豊(ディンタイホウ)は、世界10大レストランの1つに数えられる程の人気レストランで、日本やシンガポールにも店舗がありいつも賑わっています。今回は予約をしていったのですが、12時半というピーク時でもあり、15分ほど入り口で待たされました。店の周りは待つ人でいっぱい。隣の本屋さんが、お陰で儲かっているなんて話もあるくらい。 狭い店の奥の階段を上がり、予約したテーブルに。さっそく、メインの小籠包やシューマイに舌鼓を打ちます。小籠包はスープが命などといいますが、正直のところ味の差を見分ける程の舌も持ち合わせておらず、ひたすら食べることに徹します。細かく千切りしたしょうがと、きびきびしたミニスカートのウェイトレスの方が印象に残った人気レストランでした。
今回宿をとった先は、台北市のメインストリート・中山北路のそのまた中心部にある富都大飯店です。北京語でホテルは大飯店、何だかレストランのようですが、レストランは 餐庁。ちなみに英語名はFORTUNA HOTEL(フォーチュナホテル)ですが、フォーチュナホテルと言っても殆どの人は判りません。 台湾では普通ホテルのランクを示す星に当るマークを梅で表示します。この富都大飯店は何と最高級の5ツ梅。といっても正直のところデラックスとは言えません。かつて中央大飯店という名前だったのをリニューアルしたのですが、もうだいぶ経っていて、いかんせん、やや古いのです。何故ここを選んだかというと何といっても足まわりの良さ。メイン通りの中心部にある為、エステやお土産店の多い林森北路にも歩いて行けます。それに5ツ梅にしては安いのです。建物の構造、通路も比較的シンプルです。 チェックインする際に、もう一度ロビーでホテルの設備やルールを説明します。まず、ドライヤー、冷蔵庫、ポット、TVが備わっており、TVは日本のNHKワールドも映る事、次にタオル、バスタオル、歯ブラシ、シャンプー、石鹸、紙スリッパはあるが、寝巻き・バスローブの類はない事、そして日本への国際電話や部屋同士の連絡の仕方などです。 朝食は、1階のレストランで日本でバイキングと呼ぶバフェースタイルで、台湾の常食であるおかゆでもご飯でもパンでも好きな物が選べます。「何を食べてもいいの」――「そうですよ。おかわりも自由ですよ。ジュースもコーヒーも紅茶もフルーツもどうぞ」。はたして、麺類を皿一杯にした人、サラダを山盛りにした人、どちらも完食。「いつも朝こんなに食べるの?」――「そうでもないけど、せっかく旅行に来たんだから」とはユキちゃん。 そして、海外に出たら必ず持っていてもらうように奨めるのが名刺大のホテルカード。今回は、それぞれの部屋番号とガイドさんの携帯番号も記入して渡しました。 もう一つ、チェックアウトの際、メイドさんが清掃しやすいようにと、部屋のドアを開けたままにする人がいますが、時々、精算までの間に部屋の電話を使われて法外な国際電話代を請求されたというケースもある為、外出時はもちろん、チェックアウトの際も必ず部屋のドアを完全に閉めるように案内。ホテルライフの説明はこれにて、ひとまず終了です。
最近の海外旅行では、きれいなブティックなどより地元の市場や夜店・屋台などの方に人気があります。台湾では夜市と呼ぶ夜店が人気。士林、饒河街、臨江街などの人気夜店があります。今回は一番人気の士林ではなく、華西街に案内しました。理由は浅草の仲見世と同様アーケードがあること、比較的明るくはぐれにくいこと、それに龍山寺が近い為、帰途ここにも寄れることなどです。 海鮮料理の店と並んで、蛇のショーを見せる店や足裏マッサージの店なども並んでいます。台北の仲見世を過ぎて、台北の浅草寺にあたる龍山寺にもまわり、ここではおみくじを引いてみました。代表して引いたユキちゃんのは、日本の大吉にあたる上吉。 こんな賑やかな夜店に行かず、写真館に行った人がいます。写真館というのは、メイクをしてチャイナドレスや花嫁姿になってプロが写真を撮ってくれるお店のことで、変身写真館と呼ばれ、特に若い人に人気があります。説明会の時から台湾の写真館で写真を撮りたいと言っていたカズちゃんです。お化粧したり、髪を整えたりするので、どうしても時間がかかります。台北に来ても、その意志は変わらずということで、2泊3日の限られたスケジュールでは、夜店のところしかありません。 さればとて、程さんがホテルのすぐ近くの写真館に行き、本人の前で店員さんによく事情を説明し、くれぐれも追加費用などかからないよう念を押します。ちなみに、4ツ切くらいの写真3枚付で4000元(約14,000円)。日本到着迄、約1ヶ月かかるのだそうです。 夜店、龍山寺をまわって合流した時も「よかったよー」とにっこり。「程さん、カズちゃん も喜んでいましたよ。どうも有難うございました」と言うと、「いえいえ、どう致しまして。花嫁姿の写真って、女性は皆憧れますもんね。でも、最近は中国やベトナムからのお嫁さんも増えてるんですよ」と答えてくれました。
すかさず、私が「外籍新娘」(クァイ チー シン ニャン)ですね」と言ったら、丁寧に「そうです。でも、せっかくだから、もう少し正しく発音すると、(クワイ チ シン ニイ アン)ですよ」とわざわざ紙に書いてくれました。 先頃、日本で1.25という合計特殊出生率が発表され、あらためて少子高齢化の深刻さが浮き彫りになりました。しかし、台湾はもっと深刻で1.24。これに嫁不足が加わり、中国やベトナムからお嫁に来てもらうという事態になっているのです。外籍新娘とは、外国からの花嫁のことを指す言葉です。 今年(2006年)、2月、台湾外交部が突然、日本人シニア向けのリタイアメントビザを発給すると発表し話題になりました。これに呼応したかのように、日本人夫婦が、台湾中部の埔里(プウリー)に長期滞在すべく行きましたが、間もなくこんなはずではなかったとばかり退散しました。埔里は、台湾紹興酒の産地としても知られる水や自然も豊かなところで、地元の人達もPRに力を入れようとしていた矢先だけに、その落胆振りも大きかったようです。この一部始終が台湾のTVや新聞で報じられ大きな話題になりました。この報道がなされていた3月にも、私は台湾に来ていたのですが、台湾はまだ長期滞在には時期尚早、いやそんな事はないと、連日賑やかでした。いずれにしても、九州よりやや狭い島に2300万人以上の人が住んでおり、NIES(ニーズ)の優等生として、すでに先進国並みの発展を遂げつつあるだけに、日本からの長期滞在者を受け入れることもさることながら、台湾自らの年金問題やシニア・リタイヤーをどうするかを考えることの方が火急の課題のように私には思えました。
大きなトラブルもなく、あっという間に過ぎた3日間、チェックイン、出国手続きを済ませて待合室で帰国便の搭乗を待っている間に、上島さん等に伺いました。 「3日間、ご一緒してきたけど普通の人と変わりませんでしたね、初めにお話を伺った時、正直、自分でいいのかなぁとも思ったりしましたが、皆な返事や挨拶もちゃんとしてくれるし、少しも違和感はなかったですよ」と私の方から切り出しました。すると、「あなたが普通に接してくれたからでしょう。でも、彼女達がホームに来た頃は大変だったんですよ。洗濯をするというと浴槽に水を一杯ためて、そこに洗濯物を放り込んだりするのですから。それを1つ1つ直させて、ここまできたんです」。特に苦労話のようでも、誇らしげでもなく淡々と語る口調に、刻み込んできたご苦労が伺えます。 「グループホームというものの仕組みも全く知らないのですが、生活はどうしているのですか」という問いに対しては、収支の実情を上島さんがそらんじてくれました。「例えば、ある子の場合、病院のシーツを折たたむ仕事に行って、もらう日当が1日1,330円、ここから昼食代として650円とバス代460円が引かれます。バス代は30%補助が出ますが、単純計算で残るのは1日わずか220円。グループホームの家賃35,000円や食費・光熱費の39,000円は自己負担。障害年金66,208円と福祉手当7,200円等をもらってもマイナス。ちなみに、彼女の場合、4月は19,960円のマイナスですよ」。 「障害者の自立を目指すという趣旨で、今年(2006年)4月から障害者自立支援法が施行されましたよね」との私の問いに対しては、「それが、かえって障害者にとっては新たな困難を生んでいるのよ。週末、共同作業所に通っている子もいるけど、この負担金が毎月15,000円くらいかかるようになったから、何か作ってその報酬が仮に1ヶ月10,000円入ったとしても5,000円のマイナスなの」「だったら、行かなくなるんじゃないんですか」と更に質問しますと、「そうよ、作業所に行かない人も出てきている訳よ」と高橋さん。どうやら、障害者の就労による自立を支援することを目指すとした新法も、現場ではすんなり受け止められていないようです。 「もう一つ伺っていいですか。もしかして、とんでもなく失礼な事を聞いているかも知れませんが、彼女達は自分が知的なハンディキャップを持っているということを知っているんですか」と思いきって聞いてみました。少し心配しながらしゃべったのですが、即座に返答がありました。「知っていますよ。自分のことはね。それだけに、難しいのよね。生活のこと、親のこと、恋愛や将来のこと・・・・」。いつも底抜けに明るい高橋さんの表情が、初めて少し曇りました。 「そんななかで、文字通り爪に灯をともすようにして、あの子達は6年間、この旅行を楽しみにして貯金してきたのよね」「でも、みんな喜んでくれて本当によかったわ」と金釜さんも続けます。
出発を待つ間に、私は用意してきておいた色紙を回して皆さんに今回の旅行の感想を、何でもいいから書いて下さいとお願いしました。これを人数分コピーして、後でアルバムに貼ってもらうつもりなのですが、この種の色紙を回すと、途中で止まってしまうことが時々あり、さりとて、あまり早く回しても意味がない為タイミングが難しいところ。
でも今回はその懸念は全く無用でした。事前にお願いしておいた訳でもないのに、皆、きちんと感想を書いてくれました。大きい字でしっかりと、食べ物が美味しかったこと、兵隊さんがロボットのようだったこと、バイクが多かったことなどを生き生きと書いてくれました。
ちょうど、全員が書き終えた頃、北京語に続いて日本語の搭乗アナウンスが流れてきました。「日本アジア航空206便、東京行にご搭乗の方はB9番ゲートよりご搭乗下さい」。
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この原稿をほぼ書き上げた7月中旬、上島さんがダビングしてくれたビデオテープと一緒にグループホームのみなさんから便りが届きました。一人ひとり可愛い封筒に入れて、便せん2枚くらいずつ、私よりずっと丁寧に書いてありました。
「しゃしんやよせ書き、ありがとうございました。坂内さんも、おからだに気をつけてください。私も仕事がんばります。また、いろんな所に案内してください」
暑い夏の夜、目にも汗がにじんできました。